プラダ 財布 2012
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null「何をくれるんだい。ズボン?」 「ううん、もっといいもの」  童顔の柔和な眼が、いとしくてならないというように近づき、熱い抱擁に上気した躯は、男が帰ってからもいつまでも|火照《ほて》った。 [#ここから2字下げ] ——ああ、こんな倖せが、わたしにはちゃんと用意されていたんだわ。そう、何かの童話にあったけれど、大事に手の中に握りしめていた宝石を思いきって|擲《なげう》ったときに魔法がとけて、万事めでたしになるというアレなのね。矢島君はわたしにとって青いサファイヤみたいなものだった。でもそれを棄てる決心をしたからこそわたしは�おんな�に戻れたの。そう、�おんな�に戻れたのよ。 [#ここで字下げ終わり]  そう思うと、久しく忘れていた峻への供養をすべきだと考えついて、三輪子はあのときの太い蝋燭を引張り出して火をつけた。外はひどい|凩《こがらし》で、炎はしきりに隙間風にゆらいだが、気にならなかった。ついでに残りの葡萄酒やウィスキーも持ち出してくると、代りばんこに舐めながら、うっとりしたように峻へ呼びかけた。 [#ここから2字下げ] ——こんなに風の激しい夜、貴方はまだあの黒い光沢のある猟銃を手に、どことも知れない暗い道を歩いているのかしら。可哀そうなわたしの最後の弟。貴方が崖から落ちたとき、眼の前を掠めたのは、たぶんこのわたしの化身の白い兎だったのよ。貴方に射たれたくて血を流したくて、いつまでも身を縮めていたわたしを、貴方はとうとう手も触れず行ってしまわれた。その代りの野兎に気を取られてみごと崖を踏み外した、その仕掛をしたのがわたしだと思われてもかまわないわ。それぐらい貴方はわたしを踏みつけにしたんですものね。でも、もう許してあげましょう。貴方の遺した藍いろの紬は、いますばらしい人に贈られて、そこで本当に香り立つんですもの。その藍の香に包まれてわたしは恍惚と昇天するんですもの。 [#ここで字下げ終わり]  そのとき蝋燭の炎が再び激しくゆらいだのは、風のせいばかりではなく峻の幽かな応えだったのかも知れない。  約束の日、いそいそと取り出された畳紙に大きく記された商店名を見るなり、太一郎は無邪気な声をあげた。 「おや、着物をくれるの。それにしても偶然なのかな。この呉服屋、うちの親戚なんだ」 「なんですって」 「たしかおふくろの従兄弟か何かだよ。あの親爺、元気でいるかな。へんに職人気質で講釈のうるさいひとだけど、早速電話してやろう。わざわざ俺のを仕立てたんだって知ったら、きっと喜ぶよ」  太一郎はすぐ畳紙の紙紐をほどいて、十日町紬を引張り出すと、胸にあてがうようにしてしんそこ嬉しそうに三輪子を見返ったが、その姿は三輪子にはさながら青い幽霊としか映らず、もとより匂うべき藍の香はどこにもなかった。 [#改ページ]